検索

Who is HIROAKI MORI? / Part IV

みなさんこんにちは!映像ディレクターの森博章です。

自己紹介第4弾となる今回は、大学院時代までを紹介します。

東京藝術大学の大学院2年間の、濃密な体験記です。それではご覧下さい!



2013年(24歳)


佐賀大学卒業後に引き続き研究生として大学に残るという決意をした背水の陣から1年。

晴れて、東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻に入学した私でしたが、それはまさに、これまでとは180度異なる世界でした。


それは、入学式の日からはじまります。

上野キャンパスでの入学式を終えて、オリエンテーションのために横浜の馬車道校舎へと向かいます。上野では初々しい学部生がたくさんいて、春の陽気も心地よく、在学生からの祝いの演奏などもあり、まさに華々しい入学式でした。しかし、横浜キャンパスではオリエンテーション早々、現実を突きつけられます。

教授からの話では、希望に満ちた言葉が出てくると思いきや、この2年間は4年間のように感じるほどの濃密な時間になる、この中でアーティストになるやつなんてほんの一握りだ、などと、先々不安になるような厳しい叱咤激励を受けました。

そして、再度移動して、メインの学び舎となる みなとみらいの新港校舎では、いきなりデッサンが行われます。しかも、入学したてで顔も名前もよく分からない同級生の中で、代わる代わるモデルとなって即興でポーズをし、それ以外の人はその人を囲んでクロッキー素描をするのです。映像のコースなのに、入学したてなのに、同級生と仲を深める交流などなく、大量のデッサンを描きました。そして、それらのデッサンを解説する映像を初回の課題として提示されたのでした。

解散したのは夜の20時過ぎ。入学式から実に8時間ほど経過していました。いきなり一般的な大学の入学日とは違う体験をし、衝撃を受けました。


そこから本格的に授業が始まりました。前期の期間は特別演習という集中講義になっていて、3週間ごとに合計4つの集中講義が行われました。3週間の間、基本的には朝からみんなの終電近くまで講義や課題などの時間となっていて、課題も2〜3日に1つくらいのスパンで出されました。課題ごとに小さな講評があり、集中講義の最後の日には、全体で集まっての講評がありました。つくったものに対して教授陣から様々な意見が飛び交い、時には怒号や沈黙もあり、とにかく緊張感のある時間でした。

上京したてというのに、東京はおろか、横浜の観光なんてする暇もなく、好きな映画や野球を観る時間なんて皆無でした。毎日とにかくいろんな映像作品やアート作品などを講義の中で見て、講義の中でいろんな知識をインプットし、課題を通してアウトプットする日々でした。中には校舎のあるみなとみらいに行くのがトラウマになるような学生もいましたが、私は全くネガティブではありませんでした。むしろ、こんなに映像やアートのことを考えられる毎日が楽しくてしょうがなかったのです。授業のレベルも高く、リファレンスで出てくる作品や用語は全く知らないけど、1つ1つ理解しようとメモ魔になって学習に励みました。

周りが課題で出すアイデアやリファレンスの1つ1つが新鮮で、いかに自分のレベルが低いかということをまざまざと見せつけられる毎日でした。でも、それが心地よく、モチベーションにもなっていました。

変に映像やアートへの先入観がなかった分、課題では自分のピュアなところが出ていました。映像やアートの文脈など、そんな格好つけたものとは到底かけ離れたアイデアや表現でしたが、それを面白がってくれる同級生や助手や教授もいて、割と素直に自分を出していました。


課題制作の撮影やリサーチのために外出できたので、なんとなくみなとみらい周辺の立地が分かるようになりましたが、基本的には自宅と校舎以外はあまり立ち寄らない生活が続いていました。

電車や人の多さや建物の高さなどには全然慣れておらず、また、物価が高い上に食べ物がそんなに美味しくないことなど、これまで23年間の九州の生活と異なる面が多いことも体感していました。


怒涛の集中講義と、夏の成果発表展が終わった7月下旬、いよいよ研究室が決まって、個人制作に移りました。

研究室では、佐藤雅彦教授の研究室を選びました。佐藤先生の集中講義はとにかく量が多くて高度で知的で大変だったんですが、先生がいろんなことを面白がる姿勢、そして、常に教育者でありつくり手であるところに興味を惹かれていました。

先生の経歴としても、馴染みのあるコマーシャルや紙媒体、テレビ番組などを手がけられてきていることや、様々な媒体で表現されていること、そして、それらが商業性もはらんでいることなどから、一般大学から進学してきた未熟で田舎者の私が教えを受けるには、1番いいのかなと思って希望しました。


研究室に配属されると同時に、自身のテーマも決めました。私は、「MORIFILM」というネーミングで、映画をつくることをテーマとしました。

いろんな映像や媒体や表現方法に興味を持って藝大に入学しましたが、3ヶ月間の集中講義を通して気づいたのは、私が課題としてつくってきたものが、映画的な表現でのものや、映画的な手法を使っていること、映画をリファレンスとしていることや、フィクション性をはらんでいることが多く、それらを楽しみながら取り組んでいたこと、そして、自身が映像に出てきた時が好評だったことでした。

率直に映画をやりたいという気持ちも強く、そのようなテーマを課すことにしました。


しかし、藝大映像研究科には映画専攻というコースがあります。そこでは主に商業映画をつくることを学ぶので、分業制であったり、長期間かけての制作というのがありました。

そのため、メディア映像専攻で映画をやるとなると、映画専攻ではできないような映画をつくる必要もありました。ただ、私にはそんな凝った実験映画などできるわけもなく、まずは集中講義で学んだことを映画というフォーマットで表現してみようと思い、夏期休暇では佐賀に滞在し、映画を1本つくりました。


そこでは、自分の興味のある土地を先に決め、事前に前情報を得てから、実際に行って足を運びながらリサーチし、そこから面白そうな要素をモチーフにして、フィクション化するという流れで映画をつくりました。佐賀の中で、画になりそうだなと思ったのが海で、その中でも唐津市にある名護屋という場所が、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に拠点となった場所だったので、そこを舞台にすることにしました。そこで実際の城跡や近くの岬や博物館などでリサーチをし、そこには朝鮮軍の兵士が連れられたこと、その影響で焼き物が伝わり、盛んになったことに着目し、朝鮮兵の幽霊みたいなものが今も存在しているというフィクションを思いつきました。そこから幽霊話が出てきたのですが、ホラー映画が苦手な私は、脅かすようなホラーのジャンルにはせず、家族ドラマにしました。主人公には亡き父がいて、その子が偶然朝鮮兵の幽霊と交信したことによって、亡き父が守護霊となっていることに気がつくという展開を思いつきました。そうしてつくったのが「見護る氣」という短編映画でした。

幽霊は霊感によって見える人と見えない人がいるので、そういった差異を、カメラで表現することにしました。全てのカットを誰かのPOV(目線)にして、主人公が父親の存在に気づくという驚きを、観客にも共有させられるような表現にしました。

これらは全て集中講義で学んだことを活かしたアイデア、作り方、表現でした。


「見護る氣」はその後講評会でいい評判を受け、いくつかの映画祭でも上映させてもらいました。

そして、次は横浜・東京でつくってみようと思い、2本の短編を作りますが、いずれもうまくいかずに終わります。映像のつくり手としての未熟さもありましたが、大きい要因は、自分らしさが出ていないことでした。

横浜・東京という地に来てわずか半年しか経っておらず、そのロケーションを活かせていないこともありましたが、佐賀でつくった「見護る氣」には、自身の知っている九州の知識、歴史という興味、家族ドラマという物語構成、そして協力してくれる仲間などから、自分らしさが出ていたと分析しました。


そこで、2年目に入って本格的に修了に向けた研究・制作を睨む上で、私は地元の久留米で映画を撮ることをテーマにしました。

慣れ親しんだ地元だけど、ここ6年は離れていてちょっと距離を感じる。でも、横浜・東京は1年に満たない。そんな自身の、今現在のふわっとした立場から、久留米を描いてみようと思ったのです。



2014年(25歳)


2月になって春季休暇に入ると、課題でもあった作品制作のため、早速久留米へ向かいました。実家に滞在し、久留米のことをリサーチしました。

18年近く慣れ親しんだ土地とはいえ、6年も離れていると、いろんなことが変わっていることに気づきます。そして、横浜や東京での生活も経験しているので、久留米という土地柄をより客観的に見れるようになっていました。

土地や歴史や文化などいろんなことをリサーチしていく中で、やはり地元ならでばの心地よさに気づいた私は、久留米を1つの理想郷として描く物語を思いつきました。悪役のいない、みんないい人。いろんなロケーションを入れたかったので、ロードムービーにしました。筑後川や高良山など決して全国区ではないけど、自分にとってはシンボリックな場所をロケ地に選びました。

また、筑後弁という方言の面白さにも着目しました。久しぶりに滞在した久留米では、みんなの方言が不思議に聞こえました。その立場を使って、知らない人には宇宙の言葉みたいに感じさせたいと思い、セリフを全て筑後弁にしました。

また、女子高生、老人、おじさん、青年という、いろんな世代のキャラクターを登場させ、久留米における様々な世代を模倣した性格を入れました。青年は自ら演じました。

そうして作られたのが「ファンタスティックちっご」という映画です。

久留米という、横浜・東京では超絶マイナーな土地を扱ったその映画は、講評会や一般公開では返って新鮮に映りました。そして、自分らしさを感じてもらえました。


この成功を受け、夏の展示に向けて続編をつくることにしました。

規模も少し上げて、35分の尺にし、いろんなシーンを入れました。自身の経験も脚本に入れながら、おじいちゃんを主人公に、亡き奥さんの若い時によく似た女子高生に恋をするという物語にしました。「見護る氣」の時に使ったキャラクターや手法も活かしました。

梅雨の中での撮影だったのでうまくいかないこともありましたが、なんとか撮り切り、展示で上映しました。

これもまたいい評判を得て、なんとなく、自身の世界観みたいなものを掴んできたところでした。


そして、いよいよ修了制作となる最後の1本は、久留米のもっと突っ込んだ内容をテーマに扱うことにしました。

これまでは自分の好きな久留米を誇張していて、それが普遍性を表現していたのですが、リサーチを重ねる中で、実際の久留米はそんな平和じゃないなと、映画の世界とのギャップを感じるようになり、もっと現実性を入れることにしました。

そこで見つけたのは、当時の日本で問題となっていた地方都市の現状でした。シャッター街となった商店街、郊外にできる複合施設やチェーン店、オリジナリティが失われ、似たような街になっていくという現状を、映画で扱うことにしました。

また、作風も変えてみたいと思い、これまでのコミカルトーンや三脚中心の画づくりではなく、ドキュメンタリーのようなリアリティトーンでハンドヘルドの画づくりに挑戦しました。

最終的に「かえりてゆきし故郷の途」という45分の映画になりましたが、これは賛否両論でした。これまでのコミカルだったり、よりフィクション染みたトーンと比べると、暗めの話や演出であること、消化不良な終わり方をするところが、これまでの私の作品を知っている人からするとコントラストを感じているようでした。そして、地方都市経験者かどうかで感情移入するかどうかが分かれるところもありました。


その後、修了論文をまとめ上げ、1月には全てのカリキュラムを終えました。

全ての単位を取り、2015年3月に無事に卒業しました。


藝大の2年間では、怒涛の集中講義と、アートやメディア論など映像を取り巻く様々な知識、個人制作、そして、佐賀や久留米に一時滞在して映画をつくるというスタイルを経験しました。

そして、これからも自分のスタイルを続けて制作していきたいという気持ちと、仕事として映像をつくっていきたいという気持ちから、会社に所属せず、フリーランスとして活動していくことを決めたのでした。


次回は、社会人、フリーランスとなって仕事やプロジェクトに取り組んだ内容を紹介します。

また次回、お楽しみに!



109回の閲覧

© 2018 - 2021  Hiroaki Mori. All Rights Reserved.