検索

Who is HIROAKI MORI? / Part II

みなさんこんにちは!映像ディレクターの森博章です。

今日は、前回に引き続き、私の自己紹介をします。


今日は小学校高学年から高校までのティーンズ時代です。それはまさに、栄光と挫折です。10代にして、もう栄光と挫折を経験しているのかと突っ込みたくなるかもしれませんが、今振り返っても本当にそう思います。

それではお話しします。



2000-2001年(11-12歳)


2000年、小学校4年生の終わり、1つの大きな体験がありました。それは、妹が生まれたことです。10歳年下の妹。3つ下に弟もいるんですが、物心ついたときからずっと一緒に成長していたので、いるのが当然という存在でした。しかし、妹に関しては、母親が妊娠して、お腹が大きくなりながら成長を見ていたこともあったので、生まれた時の体験は本当に格別でした。

人の命が生まれる尊さ、新たに家族を迎え入れる喜びと不思議さ。当時10歳の私にとって、妹の誕生は、単に兄弟が増えただけでなく、家族や人とは何かということを考えさせられた出来事でもありました。


小学校高学年のこの2年間は、当時の担任の先生の、厳しくも素晴らしい指導のおかげで、人前で話す姿勢や話し方の作法などが身に付きました。

また、1999年に福岡ダイエーホークスが初優勝したことから、野球に興味を持ち、本格的に野球のルールやプレーの仕方、プロ野球のことを学んでいった時期でした。それまでも親に連れられて福岡ドームへ観戦することはありましたが、プロ野球について知った後に改めて観に行った試合はとても魅力的でした。

応援グッズや、グローブ、バットなどの道具を買ってもらったり、また、スポーツニュースを見たり、朝刊の試合結果が載っている記事を切り取って保存していたりもしました。

2000年はダイエーホークスが2連覇を達成して再び福岡の街が盛り上がるだけでなく、日本シリーズでは史上初のON対決も実現しました。


2001年はイチローがMLBに挑戦したこともあり、MLBのことも学びました。

当時行われていた総合学習の調べ学習では、MLB30球団をアメリカの地図上にまとめあげたりもしました。イチローに影響を受けて、グローブ、バット、リストバンド、キャップ、バッティンググローブに至るまで、一式イチローモデルにして野球をしていました。

また、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン、東京ディズニーシーが立て続けに開園し、連れて行ってもらったことで、より映画やSF世界への興味が深まりました。

「E.T. 」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ジョーズ」「ターミネーター」「ジュラシック・パーク」「海底二万マイル」「地底探検」などの世界は、私の想像心を豊かにしてくれました。

「ハリー・ポッター」の書籍と映画にも夢中になり、その後「ロード・オブ・ザ・リング」も公開され、ファンタジーへの興味も強まりました。



2002-2004年(13-15歳)


2002年、受験を経て、小学校を卒業、教育大学附属の中学校に進学しました。

小学校の隣なので環境はそこまで変わらないと思っていましたが、小学校とはまた違う、自由な校風が私に成長をもたらした3年間でした。

自主性を重んじるけど、その行動には責任を持つという教育方針で、私は何か潜在的なところで触発されたのか、キャプテンシーを次々と発揮します。学級委員長や応援団、生徒会など、常に人の前に立って、みんなをまとめて導くポジションを担っていきました。当時の同級生たちはとてもいい仲間で、一般的な中学生であれば批判や抵抗してもおかしくないような私のリーダーシップをフォローしてくれました。いろんな行事や組織(部活や課外活動)があり、誰かしら1度はリーダーを経験するような環境でもあったので、イニシアチブを発揮する時とフォローする時、互いにその気持ちが理解できたところも大きな財産となりました。


プライベートでは、「スター・ウォーズ」に最も熱中した時期でもありました。2002年には「エピソード2/クローンの攻撃」が公開され、2003年には「クローン・ウォーズ」のアニメシリーズがオンエア、2005年には「エピソード3/シスの復讐」が控えていたこともあって、毎日スター・ウォーズのことを考えていました。PCやインターネットの普及もあって、日英いろんな言語のサイトから情報を収集し、オンラインゲームにハマり、DVDや書籍をオンライン通販で買うこともありました。また、フィギュアやボトルキャップなどのグッズや、ゲームや書籍やサントラなど、派生製品はなんでも手に入れようと頑張りました。

オタクというワードが流行る前にガッツリとオタクになっていた時期で、限られたお小遣いは全てスター・ウォーズに飛び、常に金欠でした。

また、「ロード・オブ・ザ・リング」「ハリー・ポッター」「マトリックス」などのブロックバスターにも大いにハマり、次第にこの手のSF、ファンタジー、アクション映画の興味を広げていきました。

おかげで部活はサボり気味になってしまい、せっかく野球に熱中できる時期を映画とインターネットに捧げていました。

野球は野球で、実況パワフルプロ野球を毎回のように買ってはみんなで遊び、ひとりになればパワプロクンポケットで遊び、ホークスの試合は常に追っかけて経過を見ていました。


こんな調子で学業よりも課外活動や趣味に時間をつぎ込んでいたので、テストの成績は落ちていき、中3の受験期で努力するも時すでに遅し。高校受験では、第1志望どころか推薦や前後期受験も合わせると4度も不合格になり、唯一合格していた地元の私立高校に進学することになりました。



2005-2007年(16-18歳)


高校生活はまさに挫折と暗黒期でした。

自分の好きなこと、やりたいことに没頭していた中学時代とは打って変わって、高校は、様々なことがショッキングな日々でした。


理不尽なまでに厳しい校則と罰則、一部の教員の業務的な振る舞い、慣習や設備の古さ、カリキュラムのレベルの低さなど、これまでの人生では経験したことのない教育の世界に打ちひしがれ、毎日精神的に疲弊していました。

また、朝7時半ごろから夜18時ごろまで1日9コマの授業をこなし(しかも昼休憩は食事入れてたった30分!)、帰宅してからは膨大な宿題をこなさないといけないので、好きなことをする時間や、部活の時間は皆無に等しい毎日でした。

ここでは具体的に明かせないほど、当時は本当に理解不能な教育の場でした。


まさに、生まれて初めて経験する挫折でした。


そんな毎日を乗り越えるべく、「これは中学校の時に真面目に受験勉強しなかったせいだ。 "受験勉強をサボったという罪" に対する "懲役3年" だ」と自分に言い聞かせ、食らいつき、1度も休むことなく3年間出席し続けました。

おかげで強靭な精神力が身に付きました。


青春とはかけ離れた暗黒の高校生活でしたが、友人には割と恵まれ、同じ反骨精神で苦楽を共にした仲間ができました。また、新しい教育に理解のある若手の先生や、情に熱いベテランの先生も何人かいて、そういった先生方は真面目に取り組む私のことを理解してくれ、度々救ってくれました。


そんな勉強漬けと厳しい環境の高校生活のおかげで成長した私は、大学受験ではいくつかの大学で合格を勝ち取り、国立の総合大学である佐賀大学へ進学するのです。




ここまでが高校までの私のティーンズ時代です。中学校までは自由で自主性を重んじる環境のもと自分の世界を広げていましたが、厳しく受動性が生じた高校時代では世界はそこまで広げられませんでした。代わりに、理不尽な世の中の片鱗みたいなものを体得し、それに対する免疫と強靭なメンタルを身に着けました。そして、"懲役3年" を終えた私は、佐賀というのんびりとした街で、再び自由を求めて這い上がっていきます。


次回は大学生から現在までの20代をお話しします。お楽しみに!




43回の閲覧

© 2018 - 2021  Hiroaki Mori. All Rights Reserved.