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Who is HIROAKI MORI? / Part III

最終更新: 2019年5月6日

こんにちは!映像ディレクターの森博章です。

自己紹介の記事第3弾となる今回は、大学時代についてお話しします。

大学時代は、映像をつくるに至る、私の人生の大きな転換期とも言える時期でした。



2008-2011年(19-22歳)


佐賀県佐賀市にある国立総合大学の佐賀大学へ進学した私は、一人暮らしをさせてもらえることになりました。

元々は久留米から通うつもりでいたのですが、交通機関が発達していないため、バスや電車の待ち時間も合わせるとドア・トゥ・ドアで約2時間もかかる環境でした。現地で合格発表の開示を確認して、そのままの流れで一人暮らしの情報を集めました。そして、両親との話し合いの末、大学の近くのアパートを借りてもらいました。

生まれて初めて家族と離れ、1人で生活する日々は、学校で習ったことのない学びと経験の連続でした。自炊、ゴミの処理、掃除、洗濯、自己管理、病気になった時の対応、銀行口座開設やカード入会など、あらゆることを自分でやらないといけない環境に強制的に置かれるため、生活をすることの大変さと、専業主婦の母親の苦労、いかに親にお世話になっていたのかを、身にしみて感じました。


大学生活は高校までと違って、制服は要らず、時間割も変動し、必ずしも日中授業がある訳ではなかったので、とにかく自由な環境で、新鮮そのものでした。一方、一人暮らしも含めて、自らの行動が全ての結果につながるので、自分で考えながら、やるべきことをやらないといけない環境でもありました。


佐賀は平坦な地形で交通機関が乏しいため、移動は常に自転車でした。30分程度で5km圏内であれば、どこでも自転車で移動していました。

また、旅行や野球のサークルに所属していたので、上下関係や社会人のマナーを指導してもらいながら、人間力も磨かれました。お酒の注ぎ方や座る位置、言葉遣いなど、これまでの学生生活では習わないようなことを教わりました。こういう社会的なマナーは正直なところあまり好きではないのですが、社会人になる前に知れたのはとてもいい経験になりました。


高校ではあまり時間の取れなかった、趣味の時間も増えました。映画鑑賞やグッズ収集、そしてブログを使った発信なども行い、学業の傍ら、自分の好きに夢中になる時間がたくさんできました。

趣味はもちろんのこと、サークル活動や飲み会などでも出費がかさむため、必然的にお金が必要になり、映画館のスタッフのアルバイトを始めました。


学業や自身の進路に関しては迷いが生じていました。元々将来のことをそこまで深く考えずに、高校生活から脱して自由を得て、在学中に進路を見いだしたいという想いで大学に進学したので、いざカリキュラムがスタートすると、日々の学業に対して次第に違和感を抱くようになりました。

情報工学のクラスに在籍していたのですが、入学当初はウェブや画像やCGのデザインをやりたいなとなんとなく思っていたところ、実際は、コンピュータの世界の基となる様々な言語や、0/1の概念、アルゴリズムや人工知能、機械学習などをアカデミックに学ぶところということが分かりました。大学2年生の時に、自分がやりたい方向性はこれじゃない、という気持ちがハッキリと芽生えていました。


2010年、大学3年生となって就職活動を開始すると、私の気持ちは情報工学系の進路ではなく、自分が楽しいと思える分野の仕事に就くことを考えていました。

ちょうどその頃、キャンパス内で自主映画を撮っている後輩と知り合い、何本かの自主映画に出演させてもらいました。当時の私には、学生のような素人が "映画を作る" という概念はなかったので、同世代の人たちが映画を撮っているということ自体がとても鮮烈でした。ちなみに出演を希望した理由は、スターなど俳優が好きだったからでした。

当時の佐賀大学には映像をつくる学部・学科はなかったのですが、たまたま教育・研究の一環で、カメラや三脚、録音、特機などの撮影機材が一式揃っていました。また、学生全体で周知されていることではなく、一部の人しか知らないような情報でした。そのようなことに遭遇できたことは、今振り返ると本当に幸運な出来事でした。


自主映画の出演を通して、自分がやりたいことは映画に関わることなんじゃないかと思いはじめ、ぼんやりと俳優をやりたいと考えるようになりました。しかし、当時既に21歳だったので、演技を1から始めるには遅すぎることも分かっていました。やってみたいという願望レベルの気持ちと、はじめるには遅れている、止めたがいいんじゃないかという現実的な気持ち。その狭間で葛藤していました。


そのような気持ちだったので、私は就職することを止め、大学院に進学することを決めました。ただ、それはやりたい研究を深めるというよりは、学生という時間に対する延命措置をとるための選択でした。佐賀大学の情報工学系の大学院を受験し、合格しますが、もともとやりたいことじゃない分野に進学すること自体にハッキリとした迷いがありました。そして、熟慮の末、自分がやりたいことをやる道を選ぶ決意を固めました。

しかし、だからと言って具体的にどの道に行くか決めたわけでも、候補がある訳でもありません。そのような状況の中で、親には合格していた大学院への進学を辞退する意思を告げました。具体的に方向が決まっている訳でもない中で、大学院へ進学できる道を捨てること、さらには、払ってもらった入学金を無下にするという選択でもあったことから、親からは相当な説教を受けました。すごく申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、自分の中ではこの選択は間違っていないという強い意思だけがありました。


そして、卒業研究発表と論文が落ち着いた私は、卒業式1ヶ月前の2月に、大学内にあるキャリアセンターに相談し、そこで自身の進路に関する経緯と、これからやりたいことを正直に話しました。すると、教育分野の教授を紹介してもらい、面談をさせてもらえました。その先生との面談で自身のことをありのままに全て話すと、今度は1人の先生を紹介してもらいました。

その先生とは、中村隆敏教授。教育分野の先生ですが、もともとはファインアートのつくり手で、高校教員の経験があり、しかも在職中に大学院に進学して情報工学の研究をした経緯がありました。ファインアートからメディアアートまで幅広い知識と経験があり、今の私が教えを乞うには最適の先生でした。さらには、中村先生とは、自主制作映画に出演した際に、偶然面識がありました。それ以来の面会ではありましたが、私の進路の悩みをすぐに理解してくれて、自身の研究室の研究生になることを提案してくれたのです。そして、教育系の教授陣や大学機関に事情を説明し、研究生として迎え入れることに尽力してくれました。

こうして、悩みに悩んで、暗闇を彷徨い歩いていた自身の進路に、1つの微かな光が灯されたのでした。



2012年(23歳)


佐賀大学大学院の教育分野の研究生としてスタートした "大学5年目" でしたが、研究生という制度は、期間が1年間しかなく、卒業証書がもらえるわけでもなく、あくまで大学院進学の準備のための措置でした。そのため、1年で何らかの結果を出さないといけないという、追い込まれた状況からのスタートでもありました。


はじめは何から手を付けるべきかよく分からないところもありましたが、クリエイティブなことをやることは間違いなかったので、先生の指導のもと、絵画、デザイン、映像、プログラミングアートなど、広く浅く、いろんなことをやりました。学内のいろんな先生方にお願いして、大学1、2年生の中に混じって、基礎レベルの講義を受けさせてもらいました。

同じキャンパス内での学業なのに、これまでと全く違う環境で、同級生はいないし、自分よりも年下の人が何十倍もうまい。そんな現実にちょっと心が折れそうな瞬間もありましたが、やるしかないという強い気持ちだけはあり、興味のあることはなんでもトライしました。


そういったチャレンジの日々で2ヶ月が過ぎた6月。急に、映像をやりたい、という気持ちがハッキリしました。当時何か特別大きな影響があった訳ではないんですが、自身の潜在的な意識が現れた瞬間だったのかもしれません。元々映画などの映像の世界が好きだったこと、映像が総合芸術でいろんなアートのジャンルを包括していることが、その原動力になったのだと思います。


そこからの毎日は、とにかく映像のことだけに集中するようになりました。映画、テレビ、実験映像、YouTubeなど、いろんな映像を観て、習作とも言えない試作レベルの映像をつくりはじめました。企画出し、絵コンテ、撮影、編集など、いろんなプロセスを体験していく中で、やはり演じている時が面白いということを再発見し、自身で出演と監督と編集を手掛ける企画にもチャレンジしました。また、夏には毎週土曜に福岡へ通い、演出のプロが指導する映像演技のワークショップにも参加しました。


9月からは、偶然にも企画された、佐賀市と佐賀大学の協働による映画制作プロジェクトに参加することになり、制作総指揮というかたちで、制作進行から完成後の上映まで、全ての工程に関わりました。大学の学生や先生たち、佐賀市や佐賀県の職員の方々、一般の子供からお年寄りまで、全て素人同然の制作陣で、90分の長編実写映画を約半年かけてつくりました。

右も左も分からぬまま、ロケ地の許可取りやキャストとの連絡、スケジュール調整、制作スタッフとのミーティングなど、毎日体当たりで激務をこなしていきました。

その期間は個人制作はほとんどできませんでしたが、代わりに、規模の大きい映画のつくりかたや、いろんな人と一緒につくることの苦労と喜び、いろんな才能との出会いを経験できました。これらの経験は、映像づくりの土台としてしっかり機能してくれました。


長編映画制作プロジェクトに追われながらも、自身の研究生としてのリミットは近づいていました。もっと高いレベルで映像のことを学ぶ必要があると感じた私は、映像分野の大学院へ進学することを目標に定めました。そして、その活路を見出すには東京圏を拠点にする必要があること、金銭的に私立が難しいので国立の大学院に行く必要があることを条件にして、唯一の進路候補にたどり着きました。それが、東京藝術大学大学院の映像研究科でした。


早速、10月に開催された入学説明会に参加しました。キャンパスのある横浜まで行き、映画専攻とメディア映像専攻という、2つのコースの説明を聞きました。映画には興味あったものの、媒体にとらわれずいろんな映像を学びたい、監督というポジションだけでなく映像演技や撮影や編集など映像表現全般に興味があったことから、メディア映像専攻を目指すことにしました。


そこから、受験のためにいくつかのサンプル映像をつくりました。

翌年2013年の1月には、試験対策や視察も兼ねて再び横浜へ行き、メディア映像専攻の修了制作展を観に行きました。

2度の横浜滞在いずれとも、どこか横浜の街が自分にしっくりくる感覚がありました。これで終わりじゃない、またこの場にこれるんじゃないかという気がしていました。一方で、東京藝術大学なんて芸術の東大と言われるほどの難関なので、アートも知らず、映像もほとんど初心者のような自分が受かるなんて奇跡でも起きない限り無理だろうと、半ば記念受験のような気持ちでもありました。


そして、一次試験となる、ポートフォリオなどの書類を提出したところ、なんと通過してしまったのです。これは天から授かったチャンスだと思い、そこからは合格したいという強い気持ちの元、試験対策に励みました。


2月には長編映画の撮影が佳境を迎えていましたが、深夜など合間に時間をつくって試験課題となった映像サンプルを制作し、3度目となる横浜の地で二次試験に臨みました。

試験はペーパー試験と面接試験が別日程で行われ、中1日の間があったので、その日は遠隔で長編映画の仕事をこなしながら、国立新美術館や21_21 DESIGN SIGHTなどで行われていたいろんな展示を観ました。東京での展示はとても刺激的で、この環境に行きたいという気持ちが湧き起こりました。

そして、翌日臨んだ面接試験では、事前に提出していた映像課題の説明や入学した際にやりたい研究・制作プランを話しました。普段こういう場では緊張しないタイプでしたが、教授陣の圧倒的な存在感と独特の空気感に飲み込まれ、動揺し、自分の中で消化不良に終わりました。手応えはなく、試験が終わった後は落ちたなと思いました。当初の記念受験の気持ちなんてなく、絶対に行きたいという気持ちが本心だということを悟った瞬間でもありました。

そして、帰りの飛行機を最後にそれ以上進路のことは深く考えないことにして、切り替えて長編映画制作のラストスパートに挑みました。


2013年3月、自身の進路以上が不透明な中で、長編映画制作でに日々忙殺されていました。

そして、いよいよ合格発表の日が来ました。手応えは全くなかったので、期待もせず、なるようになれと思って結果開示のWebページを開きました。すると、瞬時に馴染みのある番号があることを認知しました。そこには、自身の受験番号がハッキリと書かれていたのです。

その瞬間、天にも昇るような高揚感と、全てが報われたような安堵を感じました。自分を信じるとは、奇跡を起こすとはこういうことなんだなと、身体の底からあらゆる感情が湧き起こりました。

すぐさま親にこの結果を報告し、翌日には家族会議のために実家へ一時帰省しました。合格という結果を伝えることに止まらず、今後何をしたいのかという意思をハッキリと提示しました。そして、今後2年間にどれだけの時間とお金がかかるかということの説明も受けました。私も、それを受け止め、それだけ大きな責任が伴う大学院生活になることを改めて覚悟しました。その後、両親は、全面的な支援を快く約束してくれました。

こうして進路が決まり、入学手続きや引越しを1つ1つこなしていきました。4度目となる横浜滞在では新しい部屋を決めました。翌日には藝大の上野キャンパスまで行き、自分を奮い立たせました。東京や横浜なんて数回しか行ったことない中で、今後はこの地が生活の拠点になるという事実は、全くもって夢のようなことで、信じられませんでした。

その後、長編映画が無事に完成し、佐賀市内での一般上映とローカル局でのテレビ放送が行われました。怒涛の1年にようやく区切りがついた瞬間でした。

映像のつくり手としての第1歩が、ようやく開かれようとしたその時でした。



ここまでが、私の大学時代です。同級生とは違う道、自分の好きなこと、夢中になることをひたむきに目指そうと足掻いた時代です。1歩間違えると路頭に迷っていたかもしれないところ、まさに背水の立場のなかで、周りの人たちに助けられ、信念に基づいて行動して結果を出し、新たな扉を拓いた時代です。

大学院に進学した私は、横浜・東京という地、ハイレベルな授業と同世代に揉まれながら、これまでとは180度も異なる映像漬けの環境が始まります。


続きはまた次回!お楽しみに!




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